媒介契約をキャンセルされた話し


媒介契約をキャンセルしたいという連絡があったのは専属専任媒介契約書を取り交わしてから一週間後のことであった。

 大手電気メーカーにお勤めの田中さんが来店されたのは、その10日ほど前、東京本社に転勤することになったので、今住んでいる住宅をどうしたものかと相談に見えたのである。

リーマンショックで世の中が大きく揺れた年の翌2009年の2月のことだった。

 東京の社宅へ引っ越しすることに決まったが、数年前に購入した自宅の管理をどうするか。

この際、売ってしまおうか、それとも人に貸した方がいいだろうか、と悩んでおられたのである。

田中さんの住まいは大手建築メーカーで建てられた注文住宅で、間取りは4LDK、使い勝手も良く、大変きれいに使われている。

 わたしはその住宅を人に貸した場合の家賃収入と、住宅ローン返済額との比較、住宅を売却したときの費用、そのときにかかる税金等を差し引いて手もとに残る金額等を説明してさしあげた。

 不動産の価格は物件周辺の成約事例、土地の公示価格、路線価、土地建物の評価額、建物の新築時の価格から経過年数、耐用年数をもとに算出した価格等から総合的に判断して算出する。

 当時は リーマンショックの世界的な大不況を受けて、非正規雇用者などが解雇されるいわゆる「派遣切り」が社会問題化していた。地価の下落も続いていたが、その後も下がることはあっても、上がることはないように思われた。

そして、いろいろと検討された結果、この際、売却した方が得策ということになり、査定の結果2500万円で売り出すことになったのである。

不動産業者が仲介の依頼を受けた場合は、依頼者にその内容を書面(媒介契約書)にして交付しなければならない。媒介契約には①専任媒介契約 ②専属専任媒介契約 ③一般媒介契約の3種類がある。

田中さんには一般媒介契約と専任媒介・専属専任媒介の違いや、その内容をくわしく説明してから、田中さんの希望で専属専任媒介契約を締結した。

専属専任媒介契約書

媒介契約の期間は3ヶ月であるが、広告を打てばすぐにでも買主が現れるだろうと思ったものだ。

 早速、販売の為の資料と間取り図面等を作成し、広告会社にも新聞への折り込み広告を依頼した。

ところが、その1週間後、田中さんから電話があり、冒頭のとおり、先日取り交わした媒介契約をキャンセルしたいとのことである。

何か込み入った事情でもできたような口振りだ。

田中さんが手土産を片手に来店されたのは、その翌日の開店と同時であった。

 言いにくそうにされていたが、よくよく話を伺うと、自宅を売りに出されて直ぐに、近くに住む弟さん夫婦に家を売りに出したことを話されたそうだ。

 弟さん夫婦は夫婦と子ども2人の4人家族で賃貸マンションにお住まいである。

上の子は翌年に小学校入学を控えていて、賃貸マンションの契約更新時期と重なる。

 半年ほど前にも弟さんに転勤になった場合のことを話されていたのだが、そのときは弟さん夫婦には住宅を購入しようという気は全くなかったそうだ。

 それまで家を買いたいと言っていた人が、実際に、いざ買うとなると二の足を踏む。

逆に今までその気がなかった人が、他で売れてしまうかもしれないとなると欲しくなるというのもまた人情である。

 当然のことながら、お兄さんのお宅へは住宅を購入された当時から何度も訪問して、家の造りや間取りもよくご存知である。

 それに、お兄さん夫婦には子供がいないということもあり、家はとてもきれいに使われている。

 だいいち、あかの他人が住んでいる住宅はいろいろと不安で心配な面もあるが、お兄さん夫婦の家なら安心である。

後で、買って失敗したと後悔することもないだろう。

 それに兄弟のことなのでいろいろな面で多少の無理は聞いてもらえるはず。

そう考えて、自分たちが購入して住みたいと思うようになったのである。

 結局、田中さんは、弟さんご夫婦にご自宅を譲ることになったのであるが、すでに私どもと「専属専任媒介契約」なるものを交わされている。

「依頼者は、自ら発見した相手方と売買又は交換の契約を直接締結することはできない。」と媒介契約書にうたわれている。

 たとえ兄弟間の取引であっても媒介契約を交わし、判を押した以上、勝手に売買はできない。

売主、買主ともに不動産業者に仲介手数料を支払わなければならない。

 不動産業者に売却を依頼する前に弟夫婦にもう一度購入する気はないのか、確認しておけばよかった。

これはなんともおしいことをしたと後悔するのは無理からぬことかもしれない。

 弟夫婦に家を譲るのに、わざわざ不動産業者に仲介手数料を支払う必要もないではないか。

 確かにこういった場合、不動産業者は専属専任媒介契約を締結しただけでほとんど何もせず仲介手数料が転がり込んでくる勘定になる。

濡れ手に粟とはこういうことを云うのか、と思われる方がいらっしゃるかも知れない。

 私とすれば、専属専任、専任、一般媒介契約のそれぞれについて詳しく説明させていただいた上で、田中さんの希望により、毎週不動産業者が売主に報告する義務のある専属専任媒介契約を取り交わし売却させていただくことになったのである。

 専属専任媒介契約というのは、売主が自ら買主を見つけてきた場合でも、売主は必ずその不動産業者の仲介で契約し、手数料を支払わなければならないという内容である。

 こちらとしても、媒介契約を締結後、何もしていないという訳ではなく、販売資料の作成、お客様への紹介、広告の掲載手続きまで行っているので、当然仲介手数料は発生することになる。

 田中さんは確かに専属専任媒介契約を締結しているものの、契約して直ぐにご自分から弟さんご夫妻に住宅の売買の話しをされて、売却されることになった。

 田中さんの立場からすれば、ただ専属専任媒介契約を締結したというだけで不動産業者に仲介手数料を支払わなければならないというのは納得できないことかもしれない。

 道義的な問題は別にして、田中さんが媒介契約の期間(3ヶ月)が経過してから弟さんと直接売買された場合は、仲介手数料は要らないことになる。

 私は田中さんから弟さんとのいきさつをお聞きして、弟さんの購入の意思が固いこと、弟さんの年収からいっても問題なく住宅ローンが支払っていけることから、兄弟間のことなので直接取引をされても何ら問題は起きないように思った。

 私の会社で仲介できないのは残念で、新聞広告にかかる費用分くらいはいただきたいとも思ったが、売りに出してからあまり期間が経っていないため、それ程経費もかかっていない。

 そこでこの際、田中さんは私の会社を通さず弟さんと直接売買されたらいいと思いますよとお話しした。

 そして、弟さんとの今後の売買の仕方や、不動産登記の方法などについて、説明して差し上げた。

また今回の私どもとの間の専属専任媒介契約は白紙に戻しますので、仲介手数料は発生しませんよとも申し添えた。

 田中さんも肩の荷が下りたように弊社を後にされたのであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 事務所で私と田中さんとのやり取りを見ていた年輩の営業マンが次のように言った。

 「専属専任の媒介契約を締結しているのだから仲介手数料はもらうべきだ。

せめて、今までかかった費用くらいはなぜ請求しないのか」

私の顔を見てあきれたように言う。

「あなたは・・本当にいい人ですな・・」

どうも彼の眼は私を軽蔑している、ように私には見える。

 だいいち、他の不動産業者なら、媒介契約を交わしてから白紙に戻し、仲介手数料はいらないなどということはありえないことだ。

残念ながら、紳士的に対応している不動産業者でも、客が媒介契約をキャンセルしたいなどと言ったとたんに、態度が急変し言葉を荒げてすごんでくるようなやからもいる。

実際わたしもこのような連中を何人もみてきたものだ。(不動産屋さんにはコワーイ人もいるのですね)

 もしこの案件を他の営業マンに担当させていたら、少なくとも調査費用等、諸々の軽費が掛かっていることをお客様に説明してその費用を請求するように指示していただろう。

田中さんはたまたま、私が担当することになったので、自分に「役得」があるように考えてしまった。

当然お客様からいただかなければならない手数料を、思い上がりとお人好しのために、自ら放棄してしまったのだろうか。

・・・・・・それから数日後のことである。

 田中さんご夫婦が弟さんご夫婦と連れだって弊社へお越しになったのはそれから間もなくしてからのことであった。

 弟さんご夫婦は二人の小さなお子さんと一緒で、事務所の応接室は一度ににぎやかになった。

 その後ご兄弟の間で売買ができて、その報告に来ていただいたのだろうか。

先日の、お土産をいただいたお礼を申し上げて、その後の状況をお聞きした。

 おかげさまで、兄弟の間で話し合いができ、今ある家具の一部とエアコン等も住宅にそのまま残しておき、2300万円で譲られることになったとのことであった。

 それはほんとうに良かったと思い、またそう申し上げたところ、田中さんは、

「実は今日お伺いしたのは、最初にお願いした媒介契約で、こちらで仲立ち(仲介)をお願いしたいと思い、お伺いした」とのことである。

田中さんがおっしゃるには、

「自分は査定をしてもらったり、不動産の売買の一連の流れを説明してもらったりしたのでよく理解できたが、弟夫婦は不動産の売買は初めてのことなので、もう一度説明してやってほしい」

 「また弟夫婦は住宅ローンを組んで購入することになるが、その相談にものってやってほしい」と言われるのである。

「そういうことでしたら、私どもで仲介させていただきましょう。それは大変ありがたいことです」

 「銀行での住宅ローンの手続きもできる限り私どもで代行させていただくなり、お手伝いさせていただきたいと思います」

「しかし、仲介手数料は正規の額をいただくわけにはいきませんので、割引させていただきましょう」

(通常なら売主、買主の双方から、それぞれ、売買価格の3%+6万円とその消費税分を申し受けることになる。合計で144万円税抜き。この金額が正規の手数料で結構な額である。)

 結局、仲介手数料は売買価格の1%をそれぞれお二人からいただき、合計で売買価格の2%(44万円税抜き)とした。

100万円の値引きである。

この金額は多いか少ないか異論があるかも知れないが、お二人にご満足いただいたことと、私どももその額に見合う以上に誠意をもって取り組ませていただいたことで適正な額であったと考えている。

 田中さんの案件は大変珍しいケースであったが、ご兄弟ともに満足していただき、お役に立つことができたと思っている。

・・・・・・・・

この一件は、結果は良かったもののいろいろと考えさせられる出来事であった。

私は専属専任媒介契約を締結しておきながら、あっさりと媒介契約を白紙に戻し、おまけに弟さんとの売買の仕方や、登記の方法などまで説明した。

私の行為は、その様子を見ていた年配の営業マンが言うように、うぬぼれとお人好しから出たことかもしれない。

ただこうも考えられる。

『(弟思いの)田中さんが弟さん夫婦にこの家を譲りたいと云われるのなら、白紙に戻そう。仲介手数料はいただかない、かかった費用もいらない、おまけに登記の仕方も教えてあげよう。金儲けだけのためにこの仕事をしているのではないのだ』

と考えていたから、逆に田中さんの方からあらためて仲介を依頼されたのだろうと思うのである。

お客様からの信頼をかちとったそのときの私を、私はほめてやりたいと思う。

家と鍵を手に持つ女性

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